あれは2018年の冬ごろだっただろうか。
筆者がフェンシングの練習を終え、いつものように教え子たちと歓談していた時のこと。
ある教え子の母親から、こう質問されたことがある。
『フェンシングって将来どんなことに活かせるんですか?』
この時、筆者は一瞬考え込んだ。この質問が、非常に難しいものだと感じたからだ。
「フェンシングをするとどんなことが身に付くのか?」という問いであれば、礼儀作法が身に付くと回答できる。しかし、「将来何に活かせるのか?」というのは、フェンシングというスポーツそのものの”性質”に関わる話なので、簡単には答えられない。
たとえば、スポーツで学んだスキルを将来活かせる代表的なものといえば”プロになること”だが、フェンシングはマイナースポーツゆえに、野球やサッカーと違ってプロで稼ぐ道が確立されていない。
もちろん全くないわけではないが、メジャースポーツよりも確率が低いものを回答しても、誠実な答えにはならないだろう。
では「フェンシングを習うこと自体で得られるもの」で、将来社会に出てから活かせることは何か?これについては覚えがある。というよりも、自身が一番実感していることだ。
筆者は答えた。
『礼儀はもちろんですが、何よりも活かせるのは”課題解決能力”です。フェンシングでは相手に勝つため、必死で対策を考えます。手段は様々ですが、自分の場合は対戦相手の情報収集をして対策をたてることで、結果につなげることができました。その経験が今の編集者(筆者の職業)としてのキャリアで活きています。あとはありきたりですが、諦めない心ですね。』
それを聞いた教え子の母親は、なんとなく腑に落ちたようだった。
子供をもつ親の立場からすれば、フェンシングが将来どんなことに活かせるかというのは、今後に関わる重要なことだ。この質問は子供にフェンシングをやらせている人であれば、誰もが気することなのかもしれない。
もちろんフェンシングで得られるものは人によって違うのも事実。
筆者の場合は、それが”礼儀”、”情報収集能力”、”諦めない心”だったということだ。
ここまで読んでいただいて、「そういうことにも活かせるんだ!」と感じた人もいるかもしれない。
筆者自身もここで記事を終えてもいいと思ったが、実はまだお伝えしたいことがある。
それは、これまで話してきた内容が”今までのフェンシング界”での話だということだ。
実は今、この業界では子供たちの将来にも影響を与えるほどの”大きな変化”が起こっている。
その代表的なものが、2019年4月に太田雄貴現会長が発表した「英語検定の導入」だろう。
2021年世界選手権以降、日本代表の選手選考に導入される英語検定試験。語学力の国際標準規格「CEFR(セファール)」でA2(英検準2級相当<高校卒業レベル程度>)のスコアを最低点としており、基準を満たさない限り、たとえ実力的にトップクラスだったとしても、世界選手権に出場できない。
これには賛否両論あったが、代表になるには英語を学ばなければいけないと意識づけることで、フェンシングと語学をより身近なものにすることができる。
では、そんな目まぐるしく変わるフェンシング界は、子供たちの将来にどのような影響を及ぼすのか?
この記事では、これまで子供たちの指導に携わり、フェンシング界を長年見続けてきた筆者の目線から、フェンシングが将来どのようなことに活かせるのかについて解説していく。
現場でなければ感じられないことも含めてお話しするので、これから子供にフェンシングをやらせたいという方、もしくは既にやらせている方は一読の価値ありだ。
肌で感じるフェンシング界の”変化”
これまでフェンシングを習うと、子供たちは「礼儀正しくなる」と言われてきた。
その理由はフェンシングが中世ヨーロッパの騎士たちが育んできた剣技がルーツとなっていることで、”騎士道精神”という相手を尊重する礼儀正しさが身に付くと言われてきたからだ。
しかし、近年のフェンシング界は変化が著しい。北京、ロンドンで銀メダルを獲った太田雄貴氏が、会長に就任してから様々な改革を実行しているからだ。
その中でもインパクトがあったのが、前述した通り2019年4月に発表された”英語試験の導入”だろう。
英語試験導入によって変わっていくこと
以前、筆者が太田雄貴氏の講演を聞きに行った際、彼はこう言っていた。
『現役の時に、外国人の審判やコーチともやり取りできるようになって、引退した後も選択肢を広げてほしいんです。
これを僕らは『アスリートフューチャーファースト(アスリートの未来を第一に考える)』と言っています。
これは、引退後も選手たちを大切な人材と捉えて、今後、どういうキャリアを歩んでいってほしいのかということを大前提にした考え方で、フェンシング協会では、そういった教育という面も、手を抜かずにやりたいのです。』
つまり、フェンシングを引退した後も役立つスキルを、現役の時に身につけてほしいということだ。
これまでのフェンシング界では、英語は特に必要とされていなかった。国内の試合ではまず使わないし、そもそも競技に没頭していたら英語を学ぶ時間はない。
海外遠征に行く人が、必要と感じたら学べないいという認識だったのだ。
しかし、英語試験導入によって”フェンシングをしていると語学が必要なんだ”、と意識させることができる。
これは非常に重要なことで、グローバル化が進む今の時代、将来語学が必要になるのは間違いない。
筆者が大学生で就職活動をしていた時も、語学が話せる友人は、内定先を複数獲得していた。
これは、企業側にとっても語学を話せる人間のニーズが高いことを表している。
以前、筆者が取材した方で、都内でもトップクラスの人気を誇る学校の理事長もこう言っていた。
『有名大学に合格すること、その出身者であることは大変喜ばしいことですが、それだけでは必ずしも人生の保険にはなりえません。特にお父様を中心に、企業の第一線でご活躍されている保護者様は、「有名大学の出身であっても、仕事ができるかできないかはその人個人による」ということを痛感されていて、「活躍できる人材はある種の条件が整っている」ということをおっしゃっていました。だからこそ社会に出てから活躍するために、コミュニケーションツールとして使える英語を習得することが必要なのです。』
フェンシングのみならず、将来の仕事でも活かすことができる”語学”の導入。
太田会長も英語試験導入を決めてから、協会の負担で、週に2回、オンラインの英語レッスンを当該選手200名に対して、無償で受けてもらっていると言っていた。
これだけみても、日本フェンシング協会の本気度が伺える。
フェンシングがスポーツの枠を超えて、ビジネスにも活きるスポーツと言われる日も遠い話ではないだろう。
ビジネスの世界でも活かせる”情報収集能力”も培える
以前の記事でもご紹介したが、フェンシングは”筋肉を使ったチェス”と言われるほど頭を使う競技で、”情報戦”の側面もある。
これについても相手をここまで分析して対処するということは、今までには無かった。
海外の選手向けにやっているのでは?という声もあるが、これは国内の試合でも通用する方法だ。
実際、筆者は情報をかき集め、大学時代に全国大会でも上位に入賞した経験がある。
筆者の場合は、実際に他校の練習場に足を運んで、一緒に練習したり、試合会場で他の学校がどのような練習をしているのか聞き出していた。
この方法は、フェンシング日本代表のコーチでもあるオレグ・マツェイチュク氏も実践している方法だ。
”国際大会に行くと、試合会場に井戸端会議の輪が出来る。各国のコーチたちが自然に集まって出来るのだが、私も必ず顔を出すようにしている。
井戸端会議には、重要な意味が二つある。ひとつは、言うまでもなく情報交換。世界の強豪国が今、何を目指しているのか、どんなことに頭を悩ませているのかが、それとなくわかる。”
(オレグ・マチェイチュク、奇跡は準備されている、講談社、2014年、127ページ)
これを実践すると何がいいのかというと、苦手なタイプの研究をすることで、練習の質も変わるし、苦手な選手の対策をしておけば、試合で勝てる確率をあげることができる。
これは将来の課題解決能力、自身の目の前にある壁に対して、情報を集め、解決していくという課題解決能力を身に付けることにつながるだろう。
今はITも発展しているので、インターネット上から必要な情報を得ることもできる。
本メディア「Fence」のように、どのような戦術を建てればいいのか掲載されているサイトからノウハウを得て、自分なりにアレンジするのも、もちろんアリだ。
これらの情報収集能力は、語学同様、社会人になってからも大いに役立つ。
もちろん試合に出て経験を積んでからだが、フェンシングをしていると得られる効果は、ITの世界同様、日々進歩していると言えるだろう。
将来フェンシングで活かせること
さて、ここまで「礼儀」「語学」「情報収集能力」など、フェンシングを習うと身に付くであろう技術について紹介してきたが、もちろん今後、フェンシングのプロになる道も確立されるかもしれない。
筆者は大学までフェンシングの推薦で行き、就職と同時に現役を引退したが、今はこのメディアと墨田フェンシングクラブを運営している。
フェンシングで培った技術は存分に活かせているし、その技術を次の世代に引き継いでいくことにやりがいも感じている。
同じように考えている指導者は多いはずだ。これからのフェンサーたちには、そうした人たちから学べることを学び、自分たちでもプラスαで新しい要素を付け加えていってほしい。
それは語学でもいいし、ITのスキルでもいい。
筆者の場合は、ITスキルや情報収集能力をフェンシングの技術と一緒に伝えていくつもりだ。
そうしてフェンシング界もさらなる進化を遂げていく。
今後スポーツの枠を超え、ビジネスにまで影響を及ぼそうするフェンシング界の改革に、乞うご期待だ。